コラム

  • マリアン・アンダーソンと1939年のリンカーン記念堂 歌われた霊歌と編曲者

    1939年4月9日、復活祭の日曜日に、コントラルト歌手のマリアン・アンダーソンは、ワシントンのリンカーン記念堂の階段で野外のコンサートを開きました。ここでは、米国議会図書館のブログをもとに、コンサートに至る経緯と、その日に歌われた黒人霊歌と編曲者を整理します。歌詞は引用せず、曲名と編曲者の名前にとどめます。

    教会の聖歌隊から世界の舞台へ

    議会図書館のフォークライフ・トゥデイのブログによると、アンダーソンはフィラデルフィアで育ち、家族と一緒に家で霊歌を歌っていました。6歳でユニオン・バプテスト教会の聖歌隊に入り、そこで歌の力を伸ばしました。12歳のときに父を亡くして家計が苦しくなると、教会の人々がお金を集め、声楽のレッスンを受けられる高校へ通えるようにしたと書かれています。のちにアグネス・ライフスナイダーとジュゼッペ・ボゲッティに学び、オペラの世界へ進みました。1956年の自伝『My Lord, What a Morning』で、アンダーソンは、ボゲッティのオーディションで霊歌「Deep River」を歌ったこと、師事してからは霊歌の解釈にも一緒に取り組んだことを振り返っています。

    霊歌を演奏会のプログラムに

    オペラと独唱会の両方で求められる歌手になってからも、アンダーソンは演奏会に伝統的な霊歌をいつも取り入れました。アフリカ系アメリカ人の芸術と才能にもっと目を向けてもらいたいと考え、ハリー・T・バーレイ、ホール・ジョンソン、フローレンス・プライス、ローレンス・ブラウンといったアフリカ系アメリカ人の作曲家が、オーケストラや声とピアノのために編曲した霊歌を歌いました。ブログによると、1924年に初めて録音した曲も、オペラの曲ではなく、こうした編曲の霊歌でした。20世紀の初めには、アフリカ系アメリカ人の作曲家による編曲で霊歌が再び歌われるようになり、アンダーソンが歌い始めたころには、新しい形の霊歌が手に入るようになっていたと説明されています。1930年代の初めにはヨーロッパを回り、オペラとともに、オーケストラ用に編曲された霊歌をヨーロッパの聴衆に紹介しました。

    1939年、リンカーン記念堂へ

    ブログによると、アンダーソンは1935年にヨーロッパから戻ってニューヨークのタウンホールで歌い、1936年にはホワイトハウスで初めて歌いました。その後、演奏会を主催していたハワード大学の関係者の間で、より大きなコンスティテューション・ホールで歌う案が持ち上がりました。しかし、ホールを持つアメリカ革命の娘たち(DAR)は、白人だけに舞台を使わせる決まりを変えず、ハワード大学主催の春の演奏会にホールを使わせませんでした。新聞が報じると世論の強い反発が起こり、大統領夫人エレノア・ルーズベルトは抗議して DAR を退会しました。NAACP は歌手を支えて別の会場を探し、ルーズベルト夫人は NAACP のウォルター・ホワイトや内務長官ハロルド・イッキーズと協力して、野外のコンサートを実現させました。人種の混じった大勢の聴衆を受け入れる会場がワシントンで見つからず、国立公園局が管轄のどの公園でも使ってよいと認めたことから、復活祭のリンカーン記念堂でのコンサートが発表されました。

    7万5千人の聴衆とラジオ

    コンサートには人種を問わず7万5千人ほどが集まり、ラジオで全国に放送されました。フォークライフ・トゥデイのブログは、ラジオの聴き手は数百万人に上ったとしています。教師向けのブログによると、その日のアンダーソンは、肌寒い強い風の中で毛皮のコートを着て野外の舞台に立ちました。国の公民権の大きな場面と、それまでで最も多い聴衆を前にして、アンダーソンは圧倒され、最初の曲を歌い出すとき一瞬言葉が出てこないように感じたと自伝で振り返っています。

    その日に歌われた霊歌と編曲者

    最初の曲は愛国歌「My Country ‘Tis of Thee」で、続いてドニゼッティのアリア「O Mio Fernando」と、シューベルトの「アヴェ・マリア」が歌われました。短い休憩のあとに歌われたのは、次の3曲の霊歌です。

    • 「Gospel Train」は、ハリー・T・バーレイの編曲です。
    • 「Trampin’」は、エドワード・ボートナーの編曲です。
    • 「マイ・ソウルズ・ビーン・アンカード・イン・ザ・ロード」は、フローレンス・プライスの編曲です。

    ブログによると、いくつかの新聞の報道では、聴衆がアンコールを求め、アンダーソンは自分の録音の中でも特に人気のあった霊歌「ノーバディ・ノウズ・ザ・トラブル・アイヴ・シーン」を、ローレンス・ブラウンの編曲で歌いました。ブログの筆者は、何度も歌ってきた編曲の霊歌があったことは大きな支えになったはずで、霊歌のおかげで、対立をあおるのではなく人の心を高める形で公民権の問題に向き合えたのだろう、という見方を示しています。「Trampin’」では、3オクターブある声域の低いところを使って歌っていると書かれています。ラジオの中継には、時間の都合で、最後の曲とアンコールは入っていません。

    その後と、記録の保存

    1943年、内務長官イッキーズは、1939年のコンサートを記念するミッチェル・ジェイミソンの壁画を、アンダーソンをたたえる催しで披露しました。同じ年、アンダーソンは DAR の招きで初めてコンスティテューション・ホールに立ち、その演奏会は中国救援の団体のために開かれました。1955年には、アフリカ系アメリカ人として初めて、メトロポリタン歌劇場で歌いました。1963年8月28日にはリンカーン記念堂に戻って、仕事と自由を求めるワシントン大行進で歌い、同じ年にケネディ大統領から大統領自由勲章を受けています。1939年のコンサートの映像の一部は2001年に国家フィルム登録簿に、ラジオ中継は2008年に国家録音登録簿に選ばれ、保存されることになりました。

    まとめ

    マリアン・アンダーソンは、1939年4月9日、会場を断られたことをきっかけに、リンカーン記念堂の野外で7万5千人ほどの聴衆を前に歌いました。休憩のあとに歌われた3曲の霊歌は、ハリー・T・バーレイ、エドワード・ボートナー、フローレンス・プライスというアフリカ系アメリカ人の作曲家による編曲でした。曲目と編曲者の記録は、議会図書館のブログで、録音や映像の案内とともに読むことができます。

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    参考にした資料

    各ページの内容は、2026年10月13日に確かめたものです。